どこへ行くにも携えて、繰り返し読んでいる本のひとつに『火宅の人』があります。 私のバイブル『檀流クッキング』を書いた檀 一雄さんの作品で、最近改めてその面白さに感動しています。
好きな箇所に線を引いたり折り曲げていたり、ボロボロになっているマイ火宅の人なのですが、その中で主人公「 桂 」がタンシチューを作る場面が出てきます。 無論、真に迫る圧倒的な描写です。
何度も読み返してはヨダレをたらした部分でありまして、今回はその再現を試みます。
タンシチューというぐらいですから牛タンを沢山用意します。
※ちなみに今回はタン先という舌先部の肉を用いています。
牛タンを鍋に入れて並々と水を張り、ニンニク、タマネギ、ニンジンと共に気の済むまで何時間でも煮込みます。
この煮汁こそが極上のブイヨンでありますから、かさが減ればその都度水を足し、大事に煮込んでいきます。 煮あがった主役の牛タンはのけておきます。
別鍋にバターを溶かし、ニンニク、タマネギ、ニンジン、ピーマン、トマト、 セロリを丁寧に炒めます。
そこへ極上のブイヨンを注ぎ入れ、ブーケガルニ(月桂樹、クローブ、セージ、パセリの茎等を束ねたもの)を放り込んで、コトコト何時間でも煮込みます。
煮込めたところでブイヨンを濾します。 野菜を潰しながら裏ごしにかけていくと濃厚なスープになります。
バターで小麦粉を炒めてルーを作ります。 ビーフシチューの要領です。
ルーをスープに溶かして心地よいトロミをつけます。
煮詰めながらワインをドボドボと注ぎ、
キャラメルを2、3個放り込んで艶を出し、塩や醤油、ウスターソース、 チャツネ等お好みの調味料を駆使して味を調えます。
この時点でウットリしてしまうシチューになっておりますが、ここで鍋ごと冷やし、一昼夜寝かせると味が格段に良くなります。
仕上げにタンを適当に切って加え、煮合わせるとタンシチューの完成です。 マッシュルームでも散らしてさあ召し上がれ。
以上『火宅の人』下巻p244〜245を参考にしながら仕込みました。 ちなみに檀さんは「食べ物の中で何が一番好きか?」と問われれば、 「牛の舌とシッポだ」と答えるかもしれん、と『檀流クッキング』に書いておられます。
たとえば、渋谷の小川軒に私が出掛けていったとする。 すると、主人は、ためらいなく、「ダンシチューですか」と笑って、訊いてくれるだろう。 ダンシチューというのは、牛の舌と牛のシッポのシチューである。
せっかくなので、『火宅の人』で好きなくだりを引用しておきます。
上巻:167ページ
ひょっとしたら私がある町にいると云うことは、そこの町の魚屋、野菜屋、肉屋等をうろついて、アンコウのモツをもう一切、皮と背鰭のところをもう一切、などとその魚肉に触ってみたり、ごねてみたりしている生活以外のものではないもかもわからない。
上巻:255ページ
人間、皿一枚とお椀と箸とさえあれば、どんな豪華な喰い物だって、これを盛って喰うことになにも事欠くようなことはない。
上巻:314ページ〜
そろそろ梅雨の時候になると、私は大いそがしだ。 ラッキョウを漬け、梅酒をつけ、スグリを漬け、梅干しを漬ける時期にさしかかるからである。
目白のアパートで、何が辛いかと云えば、沢庵がつけられない。 ラッキョウがつけられない。 梅干しがつけられない。 いや、つけられないことはないが、それらの樽を置く場所がなく、それらの原料を洗ったり、干したり、塩漬けしたりする、適当な場所がないことだ。
それでも私は北窓のところに、四つ五つの梅酒用の大瓶を林立させて、梅とスグリだけは焼酎に漬ける。 その梅の浮び具合を眺めたり、スグリの変色の具合に見入ったり、その梅酒とそのスグリ酒を混合按配して、更に葡萄酒を混ぜ合わせ、時々舐めてみては、 半日の閑を楽しむのである。
殊更それらの液汁の類が夕陽差を浴びて、ガラス窓のこちら側に、ピンクや金色の色に澄み透っているのを眺めやりながら、一人チビチビと酒を飲んでいるほど楽しいことはない。
私が幼少の時から、祖母の手造の味噌や、舐味噌や、沢庵や、梅干や、ラッキョウや、梅酒の類に馴れていたせいもあるだろう。 それを造るのを手伝わされていた楽しみを覚えているせいもあるだろう。
繰り返すが、目白の恵子との密室の生活で、何が辛いかと云ったら、自分で喰う沢庵がつくれないことだ。 市販の沢庵は甘すぎるし、第一、樽から取出したばかりの芳香とうるおいが無くて、私は口に出来ないのである。
ラッキョウも梅干もそうだ。 自分で造った梅干で茶を飲まないと朝方、目が覚めたような気がしない。 いや、食べるより作りたいのだ。 山のような青梅を樽に入れ、塩に漬け、山のようなラッキョウの皮をむき、切り揃えて、それらに熱湯をかけてみたり、 塩漬にしてみたり、いや、それらを入れる大きなザル、大きな甕、大きな樽、そのザルを洗ってみたり、樽を移動してみたり、甕のよごれを拭ったり、私は終日でも、こういう仕事は飽きることがない。
目白の密室は僅に四坪だから、四斗樽を一つ買ったら、どこに置くだろう。 さしずめ、私の仕事机の上にのっける以外にはないではないか。
恵子と私のたった二人だけの生活というのは、簡便に見えて、悲しいものである。 例えば私がブイヨンをつくる。 私は自分の流儀で大模様につくるから大鍋一杯、そのポトフがおいしく出来上ったって、恵子も一二度はつついてみるが、とても食べ切れず、 大鍋いっぱいのスープは遂に真白の黴だらけになってしまう有様だ。
悪いことに私は小買いが出来にくい。 タンが食べたければタン一本だ。 タン一本をかりに硝石と塩まぶしで、うまくつくり上げたって、そうそう毎日々々、タンばかり食べていられない。 結局電気冷蔵庫の中でカサカサにしてしまうのがオチである。 何が悲しいと云ったって、自分でつくったおいしい食品をみすみすくさらせる程悲しいことはない。 そんなことなら作らなければよいのに、又候、朝起きると、遠大な計画で料理にとりかかる。 私は今日迄大家族の料理に馴れ切っているから、分量を縮小することが出来にくいのである。
私は麻雀をやらず、碁、将棋、ゴルフ、釣など何の趣味もない。 ただ手料理をつくり、ただ酒を飲み、ただ原稿を書いているだけで、私の万般の料理は、 私の消閑とリクリエーションに大きな関係があるわけで、梅干の梅を大筵に乾したり取込んだり、沢庵の大根を物干の屋上に乾したり取込んだり、こんなことを終始やらかしていないと、私の^鬱が昂じてくる。
上巻:418ページ
東京からニューヨークまで水筒で運んできたショッツルを用いて、ただ簡単なショッツル鍋をつつこうというだけの魂胆であった。 幸い、チャイナ・タウンに豚の肝臓もあり、筍もあり、モヤシもあり、椎茸もあったから、場合によっては、猪肝の前菜位は作るつもりでいた。
下巻:289ページ
ひょっとしたら、私の重大な潜在疾患に、鱗を逆こそぎするふうの思いがけない悪性がかくされているのかもわからない。 相手の信頼と好意がはじまろうとする時に、きまって、その顛覆をはかる奇癖である。 その性情におびえているのはほかならぬ自分自身であって、 そこをよけようと、用心すれば用心するほど、かえって、そのまっ唯中に突入していってしまっている。 心の抵抗をよそに、足が前のめり、狂躁の方へ駆けこんでゆくのである。
下巻:313ページ
ひょっとしたら、私と云う人間は、天性、愛の学びが出来にくい生まれつきなのかもわからない。 愛?愛とは何だ。 私達はたまたま、今生に、ともに生れ合わせて、その時々のよろめきやすい、たまゆらの情につながりながら、生きて、亡んでいるだけではないか。
もし、愛などと云うものがあるとすれば、平穏の、悲しい技巧で、瞬時を慰め合うだけのことだろう。 いや、その時間を、いささか、もちこたえやすいように、管理し、維持するワザクレのことでもあるか。
私が辛うじて憩うのは、いつも、愛の思惑を棄てた女性達の膝のもとであった。 菅野もと子、実吉徳子、瀬野セイ等、わざわざ数えたててゆかなくとも、彼女らの色情の透明さばかりが、私を他愛なくなごませ、はげましてくれたようなものだ。
それとも、青年の日に、娼婦よりほかの女性を知らなかったから、平穏な女性の愛を覚えきれず、それに対える術を失ってしまったとでも云うのだろうか・・・・・・。
或はまた、物心ついてから、平穏な母の愛や、母の庇護下に置かれたことがなかったから、一切の母性的な女性の愛情や、平穏な女性の庇護を、わずらわしく、面倒な災禍のように、おそれ、臆するのでもあろうか。
下巻:366ページ
ざまを見ろ。 これからが私の人生だ。
火宅の人にのっとりテールスープを仕込んで食べる。
12/08/18